輝け!武術太極拳アスリート ~レジェンド選手紹介/丹井 均~

日本武術太極拳連盟・歴代日本代表選手の現役時代や今の活動、競技に向けた想いなどをご紹介します

丹井 均強化コーチ

丹井 均強化コーチ

日本で初の中国武術大会

1973年、小学生の頃に父に連れられ初めて映画『燃えよドラゴン』を見に行った。それ以来ブルース・リーに成り切っていた私は、40年前に憧れの中国武術にやっと出会うことができた。当時の練習は、先輩方が自身の練習をしながら後輩に教えるというもので、上海から有名な先生が来られる年に1度の講習会には、嬉々として全力で臨んだ。超貴重だった中国選手のビデオテープを入手し、擦り切れるほど見て動作を覚えては公園で練習する砂まみれの毎日が、武術が楽しく新鮮な日々だった。2年後の1984年「第1回全日本太極拳・中国武術表演大会」が大阪で開催され、「拳術部門」で1位を手にした。当時は「抱拳礼」を知らず深々とお辞儀をして入退場した覚えがある。順調だったのはここまでで、第2回大会以降は下るばかりの成績と離れて行く武術に対する心。好きだった武術から気持ちが離れ、バイトと遊びに夢中な日々を過ごした。

そんなある日、テレビで「第1回アジア武術選手権大会」が放送され、映っていたのは一緒に練習していた仲間だった。私はその勇姿を見て目が覚め、中国での猛訓練に取り組み始めることに。1989年に再び金メダルに手が届き、「1990年マレーシア国際武術節」で長拳3位、剣術2位、槍術2位の好成績に繋がった。この大会で共に戦い知り合った中国チャンピオンたちとは、後に自分のチームの選手を託し鍛えてもらう関係となり、挫折からの復活が得難い機会となり今もお世話になっている。大学卒業後は家業を手伝いながら選手を続けていた。仕事は卸売市場で朝4時から昼12時まで野菜の販売。練習は夕方5時から夜9時まで。睡眠は2部制で夜3~4時間、昼1~2時間の睡眠で過ごしていた。曜日によってはコーチ担当もあり、そのうち体も持たなくなって夜の練習には行けなくなり、昼間に自分で体育館をとり、ビデオカメラを設置して1人で練習を続けた。撮影した映像は先輩の前さん家に行って見てもらいアドバイスをもらう。そんな日々が続いた。ある年の全日本大会で30歳を超えた選手は成績に関わらず国際大会には選ばないということが発表され、30歳になった私は少しずつフェイドアウトしていった。

引退からコーチ業へ

選手を引退してから家業もコーチも続けていたが、理事長から専任コーチとして誘っていただき、今の仕事についた。選手時代の仲間でもあり、先輩でもある前さんと一緒にチームみんなをバックアップしていくことになった。さぁ、本格的な大阪武術隊のスタートだ!大阪チームのみんなを盛り上げていくため様々なことを考え、相談しながらすすめた。

〇 練習前に今日の練習の流れとみんなに何を伝えるかのイメトレをすること。

〇 練習が終わったらその日の一人一人の出来事や調子をメモってコーチ同士で共有すること。

〇 今の中国選手の動きを見て武術の動作、ルールを常に研究し、年と共に変化する流行りに対応すること。

〇 毎大会後に選手一人一人個人面談をして今後の方針を話し合うこと。

〇 オフの時は気分転換で武術と関係ないイベント(パーティーやキャンプ、運動会、ゲーム大会、映画鑑賞など)をすること。

オフ時のイベントの中で特に大人気なのが大阪武術隊大運動会『ザ・ガンバルマン』! 会員全員で行われる年始め恒例の行事。4組に分かれ身体、頭脳、知恵を使い競い合う一大イベント。年齢、性別、立場に関係なく激しくぶつかり合い、共に助け合うコミュニケーションのひとつ。みんな毎年楽しみにしてくれている。

練習に関してはとことん激しく。感覚が体でつかむまでガンガン体を動かしていこう。決してスパルタじゃなく、強制的に言うことをきかすのではなく、理解してもらう。こうしてどこにも負けないくらい激しい練習量をみんなこなしていた。

チームでのあり方

大阪には落語や漫才のように一般人にもボケとツッコミが定着してるのか私たちのチームは全員がボケとツッコミ両方できる。集まって話をすれば大はしゃぎ、練習中でもボケとツッコミは日常茶飯事。時にははしゃいだり、ふざけたり、また、はしゃいだり……。真剣な時は真剣にと言いながらやっぱり、はしゃいだり~真面目なミーティング中でもボケツッコミでよく道がそれる。私自身1人でもボケツッコミができるキャラなので、先頭たってやってしまうとよく怒られる。チームみんなに怒られる。でも100怒られた中に1つだけ緊張している人をリラックスさせられたら、辛いときに1つだけ微笑みが浮かんだらと私は今後もボケツッコミをし続けるだろう。みんなといつまでもはしゃいでいたいし。これが私のキャラだもの。

『ともだち』だから『仲間』だから

昔から『先生』と呼ばれる事が好きでない私はチームを作った時から先生と選手の間の壁をなくし、困った時、相談したい時に話しやすい存在でいたくて、『こういうことは先生には言えないよ』という状態をなくすため、できるだけ同じ目線で話せるように考えていた。質問したり聞くことで会話になりコミュニケーションをとる。そういった関係が作れたらいいなぁと思う。一人一人どんな人? っていうのを知りたいから。私を含めて、年齢に関係なくみんな『ともだち』でいたいと考えている。

『ともだち』とは『志などを共にしていて、同等の相手として交わっている人』と何かで読んだ。

コーチ業は選手のレベルアップが仕事。技術を教えるのは重要だけどひとつの方法であって、一番大事なのは人と人との関わりだと思っている。寄り添い、わかりあい、ふざけあいながらの『友達』。私たちのチームからたくさんの全日本大会チャンピオンや国際大会に行けたのも、志などを共にして、同等の相手としてみんなと交わってきたから成功したのかもしれない。そう!『と・も・だ・ち』だから…。

私たちのチームには昔も今も先生はいない。私たちのチームには武術を通しての『仲間』だけ。武術を通して共に成長していく仲間たちである。上下関係はなくみんな同等。教えることもあるし教えられることもある。どちらかと言えばみんなから教えられることがあって教えてるみたいな感じ。人は生まれて個々の魂があってそれぞれの道がある。その道を私は強制的に変えることはしたくない。道の先には夢があるから。強制的に引っ張ってスパルタで言うことを聞かせて私の理想の道に連れ込むって人の道に土足でズカズカ上がり込んでいくみたいだし、人の夢を塗り替えてしまうことにはしたくない。みんな夢を持ってて夢を追いかけてて、追い続けてる。『かなう』『かなわない』は途中経過であって、夢にゴールはないと思う。結果が出ればまたそこから人生が続く限り夢は続く。それは別の夢であっても同じ夢であっても次にまた追いかけるなら道は続くだろう。私はそんな夢を追いかけるみんなの道のりに寄り添えたら、何か手助けができたらと思う。そう!『な・か・ま』だから…。

4 0年経って今思う

大阪武術隊は現在まで国際大会出場者人数は総勢44人。武術を始めてもうすぐ40年。今までこうして武術を通して人と人との関係を学び仲間と共に歩んできたことを振り返ると、そこはまだ道の途中。私に何度もチャンスを与えてくださった理事長。挫折し消えかけていた私を甦らせてくれて、アドバイスやバックアップしてくれている前さん。共に戦い共に協力し合った今は亡き二人のレジェンド。私たちチームの方針に賛同し共に歩んでくれている素晴らしい現役選手たち。今も「ひーちゃんひーちゃん」と気軽に声をかけてくれ、引退しても会いに来てくれるOBたち。仕事、私生活、全てにおいて支えてくれる日本初女子自選難度チャンピオン「みきぽん」。みんながいたおかげだと思う。仲間がいたおかげだと思う。そしてこれからも…夢を追うよ。はしゃぎますよ。

1988年山東省にて

1988年山東省にて

2014年のパーティーにて みんな『と・も・だ・ち』、みんな『な・か・ま』

2014年のパーティーにて みんな『と・も・だ・ち』、みんな『な・か・ま』

丹井 均 TANI Hitoshi
1965/5/7生 大阪出身
所属:(財)JOC オリンピック委員会強化スタッフ
(公社)日本武術太極拳連盟 選手委員会強化コーチ
(公社)日本武術太極拳連盟 公認拳術一級審判員
NPO法人大阪太極拳協会 理事、大阪武術隊専任コーチ
主な競技成績・ 表彰:

■ 1984年 第1回全日本太極拳・中国武術表演大会 拳術1位
■ 1990年 マレーシア国際武術節 長拳3位・剣術2位・槍術2位
■ 1994年 マカオ国際武術競技大会 剣術2位・槍術3位
■ 1994年 上海国際武術博覧会 長拳2位・剣術2位・槍術2位